●「シブヤから遠く離れて」 まとめの感想●

千秋楽が終わったら、すぐにでも書こうと思っていたまとめの感想をやっと。その後、「透明人間の蒸気」やバレエ「ロメオ&ジュリエット」なども観て、さらに書きたいことも増えたので、これはこれでよかったかも。


「黙っていたらキッチンが舞台になっちゃうから」ということで、「廃墟」というモチーフを蜷川から提案し、そこから生まれた、やっぱり岩松了としか言いようのない世界。「解釈されて終わることに絶望を感じる」という岩松了の戯曲を、「解釈」することを通り越して、心とカラダに残る作品にしあげた蜷川。そして、なによりも、戯曲の世界を理解し、いちばん後ろの席にも伝わる全身の表現でナオヤを演じたニノ。ニノのナオヤがなければ、「解釈」するだけで終わっていたかもしれないが、ニノが演ずるナオヤの心の痛みが、あまりにズキズキと自分の心にもささるので、ニノが言うところの「低温火傷」から始まり、その火傷は真皮に達し、ジュクジュクと痛みを増した。


どこの席でみても、私は、ナオヤの動きやセリフに息を呑み、気がつくと息を止め、全身に力が入っていた。そしていくつかのシーンでは、ナオヤの気持ちそのものではなく、役者としてのニノのすごさに涙が出た。それは、玉三郎のあまりの美しさに涙がでるとか、吉田都ちゃんのコンペイトウやオーロラ姫に涙が出るとか、酒井はなちゃんのジュリエットに泣けるとか、オペラのアリアを聞いて意味なんてわからないのに歌そのものの力に涙が出るのと同じで、変な言い方だが、その芸術性の高さというか、完成度の高さというか、その才能そのものに泣けてしまった。もちろん、俳優の場合、藤山直美が「どうしても人間性が出てしまう」というとおり、観ている人に何かの思いを伝えるには、演ずる側にも役柄の気持ちを理解し、表現する引き出しが必要なわけで、そういう部分も含めてニノのすごさに涙が出た。


今回の舞台にあたり、私も含め、ニノの繊細な演技のうまさはわかっていても、はたしてそれが舞台で通用するのか、活舌がいいわけではないし、声は高いし、舞台にむいているのか、という心配をしていた人も多いだろう。それがまったくの杞憂だったことは、観た人だれもが思ったことだろう。とにかく、後の席までナオヤが伝わる迫力には驚いた。そして、声も最後までかれることなく、ささやくようにしゃべっても、どんなに早口でも、怒鳴っても、ちゃんとセリフを聞き取ることができた。いかにも舞台という感じのオーバーな演技でもなく、映像の仕事でしゃべるかのように普通にしゃべっているのにちゃんときこえる。その繊細な台詞回しには何度もゾクゾクした。日常会話のようなセリフを聞いて、前にみた「こんにちは母さん」の加藤治子、平田満、杉浦直樹といった役者さんたちを思い出したほどだった。そして、あれほど猫背だったニノだが、気になるほどの猫背ではなかった。必要ならば定規が折れるほどの猫背もなおせてしまうのだ。


ニノをみていて、匹敵する役者は誰かと考えたとき、思いついたのは大竹しのぶだけだった。例えば、草なぎ剛も、伝えるものをもつ
役者だとは思うのだが、ちょっとタイプが違うのだ。コクーンに通っていたときに、よく同じ劇場でみた剛の「蒲田行進曲」を思い出したが、剛のヤスの場合、剛の中のコンプレックスとヤスのキャラクターが一体化して、剛でなければ出きないヤスが作り上げられ、そしてニノ同様、全身からヤスの思いが伝わってきたのだ。それはそれで、火傷とは違う感じで魂に直接、訴えてくる思いだったが、剛のそれまでの経験とか人生があってのものだ。ニノのナオヤの場合、ニノ自身が確かに繊細で傷つきやすいからこそナオヤの気持ちも理解できるのだろうが、剛がヤスと一体化するほどナオヤに共感していたわけではないように思う。精神的な感度が高いニノは、自分とは感じ方や考え方が違う人についても、どう感じるかがわかってしまうのではないだろうか。自分自身と重なるわけではないのに人の気持ちを想像できる。ニノ本人が「共感はしない」と言っているとおり、共感しないけど想像できるから演じられるということではないだろうか。そのあたりが、ほとんど剛のヤスとは違うような気がする。。


ニノの舞台役者としてのすばらしさをみて思ったのは、身体能力が高いというのは、つまり、こういうことなのだということだ。ニノはバック転もきれいだし、嵐ではフリを覚えるのが一番早いというし、異常に記憶力もいいが、つまり、身体能力が高くて頭がよければ、それまでやったことないことを習った時に、それを短時間で習得できてしまうのだ。自分の思い通りに体をコントロールできるから、舞台用の腹式呼吸などもすぐにできるようになったのだろう。その上、自分の体をコントロールできるということは、全身で感情を表現しようとしたときに、やはり、全身がそのとおりに動くのだ。セリフをしゃべらないバレエダンサーは、まさに体全体ですべてを語る。40歳のフェリは14歳のジュリエットにみえる。トロそうにみえる大竹しのぶも、実はカラダはよく動く。


反対に、この作品で、最終的にダメだったと思ったのが小泉今日子。初めにみたときは、全体がよくわからなかったので、神秘的でよくわからないマリーもいいと思ったのだが、何度もみるうちに、その伝わらなさにイライラした。セリフの振幅もあまりないし、体全体から表現されるものが少ない。公演中に思わずみてしまった昔のコンサートのDVD。それをみてわかったことは、キョンキョンはトロい。動きが鈍い。そうか、だから伝わらないんだ。理解していないという心情的な部分もあるかもしれないし、もしかすると、理解していても、体がついていかないのかもしれない。


マリーがよくわからないことで、この物語がなおさらわかりにくくて、私自身、解釈論に熱が入ってしまい、岩松が絶望するような状態にもなっていたわけだが、それは、私にとって解釈して中身がどうこうということよりも、ニノがどう思って演じているのか、ニノの思考に近づきたかったからだった。理解できたときに、お稽古の帰り道、泣けてしまったというニノは、どこをどう理解して泣けたのだろう。たぶん、この先も語ってくれることはないだろう。


それにしても、20歳でこんな作品に参加できたニノは幸せだ。それもニノの才能と努力があってのものだ。


そして、こんな素敵な舞台を観られたこと、二十歳のニノが演ずるナオヤをみることができたことが幸せだということを改めて述べて、この舞台についての考察を終わりたい。

(2004.4.19記


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